笑わなくなった僕
14歳で単身、社会の荒波に飲み込まれた。
そこは気を抜いたらどこまでも落ちていきそうなそんな世界で、
僕はひっそりと一人、どこまでも戦うことを決めた。
周りを見渡せば煌びやかな人間ばかり、
だけど僕に辛く当たる人間ばかりでもなく。
柔らかく導いたり、体当たりでぶつかってくれたり、
真剣に考えて一緒に悩んでくれたり、
そんな先輩たちも少なくはなかった。
もともと一つのことをいつまでも気にしている性格でもなかったせいか、
すぐに自分の境遇を妬む小さな声や仕打ちにも何も感じなくなっていった。
ただ、一人を除いては。
彼は大きな黒い目で僕をじっと見る。
すぐに逸らされてしまうその視線を、僕は自分からは外せない。
彼の全身から発せられる空気は、僕を拒むものでもなく、
受け入れるものでもなく、ただただ、「無」。
それはもう、いっそ気持ちが良いほどの明らかな無関心。
誰と話していても誰と笑っていても感じる、
彼から発せられるそれは、若い僕を一番苦しめた。
その目には確かに僕の姿は映っているのだろう。
けれど、彼の心に僕が映ることはきっと、ないのだろう。
だから嬉しかったんだよ。
なぁ。
嬉しかった。
ある日突然、彼の目に僕が映ったことが。
生活も落ち着き、
人気も絶頂で、
努力が認められ、
僕は色々なものを噛み締めていた。
けれどそれらの何よりも、
その日の出来事は僕にとっては重要なことだった。
彼の顔からは幼さが引き、少年から青年に変わる頃。
それは唐突に訪れた。
初めて会った頃から変わらない、
自分よりも肉厚な唇を歪めて僕の顔を覗き込む。
その目を僕が外せるわけがない。
人よりも大きな黒目が至近距離でゆらゆらと揺らいで、僕はそこに色を見つけた。
それは微かな微かな色彩だったけれど、確かに僕は見つけたんだ。
興味?
好奇心?
今覚えば単なるそれらだったことは容易に分かる。
けれど、その時の僕は思いもよらない出来事に心奪われ、
彼に、心奪われ。
ずっと自分を苦しめてきた胸の痛みから解放された心地よさにあっさりと身を委ねた。
そして、今。
25歳になった僕の隣で無防備に眠る、彼。
子供みたいな顔をして眠る彼の、
頬にかかる長く伸びた黒髪を指先ではらってやる。
27歳になった彼は、時折髭を伸ばすようになった。
あぁ、笑うと皺も増えたね。
そんなところも愛しい。
あの頃とちっとも変わらない声で自分の名を呼ぶ、
その甘い声を頭の中でリピートする。
それだけで僕の中に疼く興奮の色。
彼は、俺の中での絶対的存在のまま今もなお、在り続けた。
君は禍々しい雰囲気を纏っていた時期を終えて、ただただ柔らかくなったね。
まぁるくなった。
僕は自然と頬を綻ばせ、彼の少し伸びた髭に指を這わせる。
くるくると、指先で擽るように撫でると嫌がるように眉を寄せ、身を捩ることを知っていた。
うつ伏せで寝る癖は、僕がやめさせた。
だってなあ?
顔が見えない。
こうやって楽しめない。
そうして僕は、徐々に徐々に、彼を変えていく。
彼を蝕んでいく。
彼の心が、体が、僕でいっぱいになるように。
自分でも気づかないほどのゆるやかな速度で。
僕しか求めなくなるように。
最初に知った時は、
あまりの衝撃に底なしに溢れ出る憎しみに、
この男をどうしてやろうかと思案した。
「だって、こいつ連れてると気分いいんだもん」
なんて、僕の目の前で健くんに笑いかける彼の細い首元を押さえ込んでやろうかと本気で思った。
悪びれもなく視線を合わせて、
すっと綺麗に口の端を上げるその笑みに捉えられる自分に腹が立つ。
「気ぃきくし、言うこと聞いてくれるし、綺麗な顔してるし?」
僕は、彼の単なる装飾品だった。
未熟な僕はそれに気づかずに数年間、
彼を純粋に慕い、愛し、尽くしてきたのに。
目の前が真っ暗になった。
今度こそ、どこまでも落ちていく、そんな感覚に襲われた。
暗い心の底で、憎しみが湧き上がるのにそう時間はかからず、それは僕の体を震わせる。
認めてもらえたと思った。
彼の心を少しでも捉えのだと思った。
無関心だった彼の目に色を見出したのは間違いではなかった。
けれど、それがどういう類のものか判別できるほどの冷静さを僕は持ち合わせていなかった。
落ち着け、
冷静になろうじゃないか。
大人になろう。
ここで怒りに身を任せたら、
きっと彼はあっさりと僕を捨てるだろう。
そう自分を落ち着かせ、ぐっと目を閉じる。
その時からずっと、今に至るまでずっと。
メチャクチャにしてやりたい。
そう思い続け、ついには僕は、笑顔をなくした。
彼が単純で良かったと思う。
僕に興味を持たない彼は、ただ張り付けたような笑顔を僕の本当の笑顔だと思い込んだ。
それでいいと思った。
疑いを持たせないならそれでいい。
そうして、狡猾な僕は罠を張る。
踏み入れた場所は、もう二度と抜け出せない場所なんだよ、と心の中で笑いながら。
だんだんだんだん、彼を蝕んでいこう。
僕なしじゃいられなくなるくらい、狂うくらい。
そして、その時に初めて僕は笑うだろう。
満面の笑みで彼を突き放すだろう。
僕に捨てられた彼を見て、僕はきっと、本当の笑顔を取り戻す。
「そう…思ってたのにね」
少しかさついた唇にため息を乗せて、僕は囁く。
相変わらず隣で規則正しい呼吸を繰り返す彼を感情のない目で見下ろすと、
彼が生きていて良かったと、改めて胸を撫で下ろした。
小さな声を漏らして彼が身じろぐと胸元までかかっていた毛布がわずかにずれ、その胸元に紫の痣を捉える。
冷えた視線の先に、
燃えるような赤と、鮮やかな紫。
震える指先で毛布を引き下ろせば、何も身に纏わない白い体に無数に散らばる虐待の痕。
僕はそっと目を閉じた。
これは、僕がつけた痕。
彼に与えた、数年前に僕を壊した罰。
繰り返される暴力はいつから始まったものなのか。
彼が抵抗をする度に僕の拳は固く握られ、
彼はそれを知っているはずなのに数年たった今も抵抗をやめようとしない。
痛みに、生理的な涙を流す彼を綺麗だと思う。
顔は殴らないよ、
商売道具だもんね。
僕の手だってそうだ。
肌に墨を入れた彼はその時から裸体をレンズに収めることをしなくなり、
それをいいことに僕は墨の近くを執拗に痛ぶる。
コンサートが近づくと僕の手は弱まり、比例して彼はよく笑うようになった。
不思議なことに、それは僕の中でも心が穏やかになる期間でもある。
「剛くん」
時計の針の音が響く深夜2時。
自宅のベッドの上で彼の隣で、消え入りそうな声を押し出した。
唇が震えていることに気づくと柔らかな肉をきつく噛み締める。
なんで逃げないの?
逃がす気なんてさらさらなかったけど、
それでも彼は逃げる素振りさえ見せたことがない。
この数年間、一度たりとも。
彼は年を追うごとに穏やかに笑うようになり、
ステータスに拘ることをしなくなった。
必要以上の装飾もしなくなったし、
夜遊びもしなくなった。
それから、僕に興味を持つようになった。
僕のことを色々聞いたり、見たり、理解しようとしたり、
僕と同じ景色を見ようとしたり。
面白いくらいに着実に、僕に懐いた。
笑顔は自然なものになっていき、優しい目をするようになった。
そんな彼を相変わらず甘やかしながら隣に置いたまま、
頭の中のもう一人の僕が「今だ」と囁く。
緻密な作戦は時が満ちる、この時を待ち望んでいたから、
行動に移すことに躊躇いは何もなかった。
すっかり自分に身を任せるようになった彼を、
押さえ込む。
まるで別人のような顔で。
酷く冷たい顔をしていたと思う。
彼のプライドや、築き上げてきた自信や、自分に寄せていた好意を全て剥ぎ取るにはそうする他なかった。
大きな黒目が不安に揺らぐのを、僕は見ないふりをする。
涙に濡れた目の淵を、僕は感情のない目で見下ろす。
数年間渦巻いていた僕の深い憎しみを、その細い体に遠慮なくぶつける。
そうして自分の中の気持ちが落ち着くことを確かに感じながら、
僕はやっと笑顔を取り戻せると確信した。
なのに。
なのに。
剛くんは僕から逃げない。
頭がおかしくなってしまったのかと思った。
そうして痛めつけた次の日に、
彼は何事もなかったかのように僕に笑いかけたから。
僕の感情はすっきりするどころか逆流し、逆上し、さらに複雑に渦巻き、
暴力はエスカレートしていき度々彼を傷つけた。
何度も、
何度も。
次第に僕は混乱していく。
一体、僕は何を求めているというのか。
彼が僕から離れることを望んでいるのか、
離れないことを望んでいるのか。
その口が、僕へ罵声や恨み言を発すればその時は、やっと僕は君を捨てるのに。
そんなに何度も立ち上がると、何度も傷つけたくなってしまう。
確認したくなってしまう。
どこまでしたら、君は僕から離れていくの?
どこまで僕のこと、思ってるの。
確認作業でもあったと思う。
彼はどこまで耐えるのだろうか。
この僕の、心無い仕打ちにどこまで耐えるんだろうか。
ついには、
暴力だけに止まらずに
真っ白だった彼の体内に僕の欲望をねじ込んだ。
…もう、何も残らないでしょう。
プライドも、自信も、何も残らないでしょ?
なのに、やっぱり剛くんは僕から離れない。
「剛…」
安らかな寝顔を眺めながら震える声で名を呼ぶと、
無造作に投げ出された手を握りこむ。
温かい体温に、僕の目から涙が零れ落ちた。
ドラマみたいに大粒の涙は頬を伝って、彼の体に落ちる。
透明な雫が、目を逸らしたくなるような痛々しい痣に散らばる。
愛してるんだろう、僕のことを。
一度も声に乗せたことはないけれど、
ずっと誰よりも傍にいた僕にはちゃんと分かるよ。
この人は、僕のことを、愛してる。
なあ、剛くん。
剛くんのせいで、僕は笑えなくなったんだよ。
だから剛くんに責任を取ってもらおうと思ったのに、
僕には一向に笑顔が戻らない。
このままじゃ、君を殺してしまうよ。
愛してるって、言って僕のことを抱きしめて。
君の愛で、僕の傷を包んで。
君の愛で、僕の笑顔を取り戻して。
笑いたいんだ、本当は。
穏やかに笑うようになった君の隣で、心から笑いたい。
僕は、耐え切れずに嗚咽を漏らした。
暗い暗い寝室で、剛くんの手を握り締めながら肩を震わせて声を殺して泣いた。
「…おか、だ」
不意に静寂を裂く、掠れた甘い声に僕の体は脅えたように強張る。
寝起きの悪いはずの彼はうっすらと目を開け長い睫をゆっくりと瞬かせ、
焦点の合わない目を僕へと移す。
僕は涙を悟られぬよう、呼吸を整えながら何食わぬ顔で彼の頬を柔らかく撫でた。
「起こした、な、…ごめんな」
「泣いてんの?」
暗闇に目が慣れたのだろうか。
彼の目にはしっかりと力が込められ、
先ほどまで僕の暴力を一身に受けていた者とは思えない力強さを感じる。
僕は諦めたように目を伏せてため息をつき、
震える唇を噛み締めながら温かな彼の頬を指先で擽った。
「馬鹿だな、泣くなよ」
彼はゆっくりと身を起こすと繋いでいた手を見てふっと優しい笑みをみせ、
指先をしっかりと絡ませてもう片方の腕で僕の頭を引き寄せた。
「大丈夫、怖いことなんて、何もないよ」
耳元にそっと吹き込まれた柔らかな声に、
僕は自然と強張った全身から力を抜いて彼に身を預けた。
大丈夫、
大丈夫、
大丈夫。
僕の髪を撫でながら何度も繰り返される言葉は僕の心にすっと染み込み、
言葉では言い表せないような安心感を広げていく。
恐ろしいくらい、執着していた。
この数年間、365日毎日。
僕の心を捉えてやまないこの人を、恐ろしいくらい愛していた。
あの時壊れた僕の心は、
捻じ曲がり、散々愛する人を傷つけたけど。
それでもまだ、今もまだ、こんなにも愛してる。
「剛く…俺、…」
「うん…分かってる。知ってるよ」
愛を紡ごうとしても震える唇が邪魔をしてうまくいかない。
彼の顔を見たいのに、絶えず溢れる涙のせいでちゃんと見えない。
僕を包むのは、柔らかな声と、全身を包む体温。
最愛の人の、愛。
きっと。
今、この瞬間から僕は彼に暴力を振るうことはなくなるだろう。
もうその必要はないように思えた。
それよりも何よりも、この人を優しく包んで行きたいと、
今はそう思う。
どうやって、笑うんだっけ。
そう考えるよりも先に頬が緩むのを感じた。
意図的に表情を作らないのは、こういうことか、と。
そう噛み締めながら僕は眩しそうに目を細め、
真っ直ぐに彼を見つめる。
その彼の目が大きく大きく、
零れるんじゃないかと心配になるくらい開かれるのを僕は視界に捉えた。
「愛してるよ」
END
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じゃじゃーん。お友達の桃くんの作品でした。
桃くん、全く同人屋さんではないんですが、このクオリティ。ありえない!(感動)
あまりの素晴らしさに、次回作もお願いしてしまいました。
書いてくれるかなー…。
photo by 創天