ギヤマン細工師と僕
それからでした。不思議なことが起こり始めたのは。
俊介は、斗真から贈られたギヤマンを、自分の小さな家の南向きの窓の傍の、棚の上に置きました。ギヤマンは陽の光に透けて輝き、夜はランプの灯りに照らされて輝きました。使われなかった銀貨十二枚は使われないまま、棚の中にしまわれました。
ギヤマンが手に入ったことで、俊介は元の通りに日に三度、パンとスウプの食事をとれるようになりました。
しかし、しばらくは普通に食べていたのですが、何故か段々と、食は細く細くなっていきました。なんだか、胸のあたりがつっかえているように感じ、おなかはすいているのに、どうしても喉を通ってくれないのです。
それから、夜。眠りにつくと、三日に一度は夢の中に、斗真が出てくるようになりました。
夢の中で、斗真はぴかぴかの笑顔をしています。けれど夢でありますから、目を醒ますと、斗真は消えてしまいます。あれからというもの、斗真は本当に修行の旅に出たらしく、その姿をこの町で見ることはありません。
俊介は、何故だか斗真のことが忘れられず、会えないのは当たり前のことであるのに、それがたいそう悲しく、辛く苦しく思えました。
時は移り、ある、春の日のことです。俊介はギヤマンを見つめながら、斗真を想ってぽろりと涙を零しました。
すると、どうでしょう。俊介の涙と同じに、ギヤマンの中を、何かの雫が伝い落ちたのです。
俊介は、息が止まるほどに驚きました。息と一緒に、思わず涙も止まったほどです。壜をひっくり返してみたり、軽く振ってみたり、蓋をどうにか取ろうとしてみましたが、このギヤマンにはやっぱり、一寸の隙間も見当たりません。一体、何が起こったというのでしょうか。斗真のくれたギヤマンには、何か不思議な力があるのでしょうか。
斗真のことを想った俊介は、また、ぽろりと涙を零しました。すると、ギヤマンの内側にもまた、雫が湧き出すように伝いました。
なんて不思議なことなのでしょうか。俊介は涙を拭うと、ギヤマンを光に透かしてみました。雫はもう止まっていて、透明な水のように見えるものがほんの少しだけ、底にたまっていました。
水がたまっているところは、他の部分に比べて色が違って見えます。寒い冬の清んだ月夜の空の欠片を湧水に溶かし込んだような、涙色です。薄いけれど深く、果敢無い。
涙なのでしょうか。
それからというもの、俊介が斗真を想って涙を流す度に、ギヤマンの中の水の量は増えていきました。そして、ギヤマンは涙色に透き通っていきました。
不思議なことは他にもあって、斗真を想うのとは別のことで涙を流しても、ギヤマンには何も起こらないのです。もとより俊介は、滅多なことで泣くような人ではないのですが。
こうして、俊介が斗真を想う日々は、ゆっくりと過ぎていきました。
季節は冬から春、夏から秋へと渡り、俊介がギヤマンを手に入れたのと同じ季節が来ようとしています。
この一年で、やせっぽっちだった俊介は、もっとずっと小さく細く見えるようになりました。そして、話し好きだった人なのですが、口数は日を経る毎に減っていき、ぼんやりとした表情で、空や海や遠くを眺めていることが、とても多くなりました。まるでこころが風船のように、細い糸で辛うじて繋がったまま、どこかへ行こうとふらふらと漂っているようです。
様子のおかしい俊介に、周りの人たちは何かあったのなら話してみなさいと言いましたが、俊介は悲しさを隠したような顔で笑って、首を横に振るだけでした。
見るに見かねた牧師さまが、ある日、仕事を終えた俊介をお呼びになりました。
「今日は、きちんと尋ねることにしましょう。この一年で、あなたはめっきり痩せてしまい、そして悲しい顔をするようになりましたね。特にこの十日ほどは、いつも泣くのを我慢しているような顔をしています。一体、何があったというのです?」
牧師さまのやさしい声に、俊介はくったりとうなだれました。そして、小さな声で、途切れ途切れに言いました。
「僕は、ある人のことをずうっと考えています。その人を想うと、胸が苦しくなったり痛くなったり、勝手に涙が出てきてしまったりします。薄いスウプも喉を通らない有様です。苦しくてたまらないのに、それでもその人のことを考えてしまうのです。僕は、何か病気にでもなってしまったのでしょうか。」
そして俊介は、不思議なギヤマンのことをはじめて人に話しました。泣くのを我慢しているのは、ギヤマンがとうとういっぱいになってしまったからで、あと一粒でも涙を流したら、出口も入口もないギヤマンが砕けてしまうのではないかと、恐れているからでありました。
せっかく斗真が、俊介ならば大切にしてくれるだろうと言って、譲ってくれたギヤマンです。それがよりによって、自分の涙のせいで壊れてしまうかもしれない。俊介は、自分を許せなく思いました。許せなくて、眩暈を覚えるほどでした。
牧師さまは、全てを話し終えて辛そうに肩を震わせる俊介の頭の上に、そっと掌を置き、諭すように言いました。
「大丈夫です。全ては、想いのままに。」
そして、今日はまっすぐ帰って、ゆっくりと休みなさい。少しでも、食べなければいけませんよ。と、俊介に柔らかいパンと、新鮮なミルクを持たせて下さいました。
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