ギヤマン細工師と僕
どの道を、どう歩いて帰ってきたのか、俊介はよく覚えていませんでした。
我に返ると、自分の小さな家の中。薄ぼんやりと暗くなりかかった部屋でひとりきり、椅子に座って手にしたギヤマンをじっと眺めていました。この一年で、自分が零した涙でいっぱいになってしまった、不思議なギヤマンを。
部屋があまりにも暗くなっていることに気付いて、俊介はテーブルにギヤマンを置き、立ち上がりました。暖炉の上に置いてある大きなランプの火屋を外して、火を灯します。天井から下がった鉤にかけると、ふんわりとした暖かい光が、手入れの行き届いた部屋を照らしました。ギヤマンも、その光を受けて、きらきらと輝きを放ちました。一点の曇りもありません。
俊介は、ギヤマンを見ないようにしようと、懸命でした。ギヤマンのきらめきがうっとりするくらいにきれいなのは、よく分かっています。けれど、その輝きは斗真に想いを馳せてしまう輝きでもありました。泣いてしまう訳にはいかないのです、もう。
何か、気持ちを紛らわせよう。そう思い、部屋の空気が冷たくなっていることに気が付きました。何しろ、もうすぐ冬なのです。おひさまが沈んで暗くなるのと、部屋の中までひいやりとしてくるのとは、いっぺんのことなのです。
俊介は、暖炉に火を入れました。種火を起こして木の削り屑で包み、昨日の燃えさしの上に新しい薪を何本か重ねると、やがてぱちぱちと音を立て、暖かく燃え始めました。
さすがに、おなかがくうっと鳴りました。考えてみるまでもなく、今日も朝からなにも食べていません。そして、おなかはぺこぺこなのに、やっぱりあんまり食べたくありません。
牧師さまからいただいたミルクを沸かして、大好きなココアとはちみつを溶かして、飲むことにしました。パンは、布にくるんで暖炉の上に載せてあるので、すぐに温もる筈です。ミルクに浸して、少しは食べてみないと、また心配をかけてしまいます。
俊介は、銅製の小さな鍋にミルクを注いで、暖炉の火にかけました。
その時です。
扉が、コンコンと軽く叩かれました。もう暗くなったというのに、一体誰でしょうか。俊介は、首を傾げました。
身寄りもなく、何よりひとりでいるのが好きで落ち着くと言う俊介の家を、わざわざ訪ねてくる人は、そうはいないのです。空耳かしら。
けれどもまた、扉は小さく遠慮がちにではありますが、コンコンと、軽い音を立てました。俊介は、静かに戸口に近付いて、扉を細く開きました。
「どなたですか?」
その、細い隙間から外を覗いて、小さな声で尋ねます。そこには、寒そうに肩をすくめて体を縮こまらせた、俊介よりも随分と背の高い男の人が立っていました。旅の人なのか、長くて厚いマントに身を包みこんでいます。
「どなたですか?」
もう一度、尋ねました。信じられないくらいに胸がどきどきしているのが分かります。するとその人は顔を上げて、はっきりとした明るい声で言いました。
「教会で文字や物語を教えている、俊介さんの家はこちらですか?」
それは、聞き違えようのない、声でした。一年も前に、たった一度だけ話をしたっきりの声でしたが、夢の中ではそれはもう何回も、何十回も聞いていたのですから。明るく笑ったり、時には悪戯っぽく囁いたり。
斗真の目の前で、いきなり扉が大きく開けられました。そして、何かに押されでもしたかのように、つんのめって飛び出してきた俊介の体を、斗真は慌てて抱き止めました。
「大丈夫?」
俊介は斗真の声をその耳で聞き、一回り大きくなった体をその体で確かに感じました。夢のようです。もしかしたら、本当に夢の中にいるのかもしれない。
そう思いましたが、外の空気は頬をちくちくと刺すように冷たいし、降ってくる声も抱き止められた仄かなぬくもりも、マントから漂ってくる異国の旅の匂いも、本物のようです。
俊介は、抱き止められた腕に掴まって、斗真を見上げました。そこには確かに、心配そうに俊介を見つめる、一年分おとなびた斗真の顔がありました。この一年、会いたくて待ち焦がれて止まなかった人です。
途端に、ずっと堪えていたものが溢れ出しました。
我慢し続けてきた涙が、我慢していた分だけ、ほろほろ、ほろほろととめどなく零れ落ちました。
驚いたのは斗真です。
「え、え。俺、何かした? どっか、痛い?」
「いや、違う。違うんだけど、………あ、」
俊介は、濡れた頬を慌てて掌で擦りました。そして、ようやく気が付きました。泣いてしまったということに。
それはここしばらく、俊介が何よりも恐れていたことでした。斗真の腕に掴まったままで、部屋の中を振り返ります。そこに、見たのです。テーブルの上に置いたギヤマンが、ひとりでにコトコトと揺れ動いているのを。
「いやだ!」
ギヤマンが、砕けてしまう。俊介はそう確信し、ギヤマンに駆け寄っ両手で包みこみました。斗真も訳の分からないまま、俊介に引っ張られるようにして部屋に入ると、ギヤマンに手を伸ばしました。
ふたりの手がギヤマンに触れたその瞬間、小刻みな揺れが止みました。そして、目映いばかりの光がギヤマンから溢れ、ふたりを包み、部屋いっぱいに満ちました。
あまりの眩しさに、ふたりは思わず目を閉じました。目を閉じていても分かるくらいに強く透明な光は、けれどほんの一瞬で、溶けて消えてしまいました。
俊介はゆっくりと目を開いて、恐る恐る手の中を覗きました。砕けてしまったギヤマンの欠片が、そこにはある筈でした。斗真も一緒になって、顔を寄せました。
「………あれ、」
けれど、子供のように顔を寄せ合って覗いたそこに、ギヤマンは、壊れないままでありました。そおっとテーブルの上に置き直し、手を離してもみましたが、さっきのように勝手に揺れ出すこともありません。
びっくりしたのとほっとしたのとがごちゃ混ぜになってしまった俊介は、膝から力が抜けてしまい、床にぺたりと座りこんでしまいました。
「何がどうなって、どういうことだ?」
「……大丈夫?」
と、声が頭の上から降ってきました。見上げるとそこには、差し出された斗真の手がありました。
「あ、ごめんなさい。えっと……座って、どうぞ。」
「うん、ありがとう。」
慌てて立ち上がって、椅子をすすめます。斗真はお礼を言って、背負っていた大きなかばんを下ろすと、すりきれたような砂色のマントを脱いで、すすめられた暖炉の傍の椅子に腰を下ろしました。灯りの下で見る斗真の顔は、一年前よりも線が鋭くなって、少年らしかった頬の丸みは消えていました。
ちょうどよく温まっていたミルクを、鳥の子色の厚手のマグカップに注ぎ、ココアとはちみつを混ぜてから渡しました。そして、部屋のすみっこから滅多に使わないもうひとつの椅子を持ってきて、斗真と向かい合わせに座りました。
「よく、ここが分かりましたね、」
何を話せばいいのか、そして何よりもどうして斗真がここにいるのかが分からず、俊介は言いました。だって、どこをどう見たって斗真は、修行の旅から帰ってきたばかりのようです。それがどうして、元いた学校やこれから働くであろう工房や、それこそ家族の待っている筈の自分の家ではなく、ここにいるのでしょうか。
斗真は、甘く湯気の立ち上るはちみつ入りのココアミルクをひとくち飲んで、おいしい、と呟くと、安心したような息をつきました。
「今日、さっきこの町に帰ってきて、最初に教会に行ったんだ。」
「教会に?」
「うん。牧師さまが、色々と話してくれたよ。俊介のことも、俺があげたギヤマンのことも。」
自分の名前がするりと零れたのを聞いて、俊介の体がぴくんと震えました。
斗真はココアミルクをもうひとくち味わうと、テーブルの上にカップを置いて、ギヤマンを手に取りました。この一年の俊介の涙でいっぱいになった、涙色のギヤマンを。それをランプの明かりに透かして、斗真はほおっと溜息を洩らしました。
「本当に、本当だったんだね。牧師さまが嘘を言われることはないんだけど、この目で見るまでは、信じられなかった。」
俊介は申し訳なくて、少し体を小さくしました。暖炉のすぐ傍にいるというのに、そして部屋の中はすっかり暖まっているというのに、北の山から吹き降ろす冷たい風に首を撫でられたように、細い肩をきゅっとすくめました。
それに気付いた斗真は、腰を浮かせました。
「寒い? 俺のマント、あんまりきれいじゃないんだけど…よかったら、かける?」
「ううん、平気。」
慌てて首を横に振って、両手で胸を押さえました。そんなことをされたらきっと、この胸の苦しさが、ますます大きくなってしまうに違いありません。
それでなくとも、斗真と向かい合わせに座った時から、心臓が煩いくらいにとくとくとなっているのです。ついさっき、その腕に一瞬身を委ねたことが嘘のように、俊介はどきどきしていました。
「それで、どうしてここに、」
「教会に行けば、俊介に会えると思ったんだけど、会えなかったから。この町に帰ってきてまず、誰よりも俊介に会いたかったんだ。」
斗真はにっこりと笑って、そう言いました。俊介の目を、じいっと見つめながらです。
きらきらした目。磨き上げられた黒曜石の輝きは、一年前よりも一層、光を増していました。それがどういう気持ちをあらわしているのか、言葉にされなくても分かるくらいに、特別な光。分かってしまうと目をそらすことができなくなるくらいに強く、まっすぐな想いの色です。
「どうして、」
俊介はようやくのことで、声を絞り出しました。声はとても小さくて、斗真に届いたのかどうかも分からないほどでした。だから、俊介は同じ言葉を繰り返しました。
「どうして、僕なんか、」
「一年の間、俊介のことばかり考えて、旅を続けていたんだよ。」
「だから、どうして。」
どうして、と繰り返すと、斗真はびっくりしたように目を見開きました。そして、手にしていたギヤマンをテーブルに戻し、椅子から立ち上がると、俊介の前に跪きました。神様に祈りを捧げる時と、同じに。そして、目をそらすことができずにいる俊介の手を取って、言いました。
「俺は、俊介のことが、好きなんだもん。」
ひとつひとつの言葉を大切そうに向けられて、俊介は、こたえる言葉をなくしてしまいました。人から「好き」と言われたことなんて、今までになかったのです。こんなにも大切で、特別な「好き」をくれた人とは、出会っていなかったのです。
斗真は、言葉を更に重ねました。
「俊介は、俺のことをどう思ってる?」
「どう、って………。」
俊介はますます困って、斗真のきらきらした視線からようやく逃げ出すと、力なくうなだれてしまいました。どう答えれば、伝わるのでしょうか。この想いは。
もじもじとした風に、黙ったままの俊介を見て、それをどうとったのか、斗真は握っていた手を名残惜しそうに離しました。そして、ゆっくりと立ち上がりました。
「迷惑なことを言ってしまったみたいだね。ごめんなさい、こんなに遅くに押しかけて、お邪魔しちゃって。」
目の前に立つ人を、俊介は見上げました。
そろそろ、おいとまするね。そう言った顔には、なんとも言えない寂しそうな色が浮かんでいました。
俊介は、自分でそうと気がつかないうちに、斗真の手に手を伸ばし、指をからめていました。
「待ってよ、」
違うんだよ。繋げた手から、俊介の言葉にならない想いが僅かでも伝わったのか、踵を返そうとしていた斗真は、驚いたように俊介に向き直りました。
「………俊介?」
「僕は。僕も、斗真のことを。」
けれど、どうしても俊介は言葉を続けることができませんでした。涙が零れて頬を転がり落ち、声を詰まらせたからでありました。
俊介はいつもの習慣で、テーブルの上のギヤマンに慌てて目をやりました。けれど、ギヤマンはもう、ことりとも音を立てません。俊介は、ほっと安堵の息をつきました。
その様子を目の当りにした斗真は、もう一度、俊介の傍に膝をつきました。そして、ポケットを探ってハンカチイフを取り出しました。あの日と同じ、染みひとつない真っ白なハンカチイフです。それを溢れる涙で濡れ続ける俊介の頬にあて、それから手に握らせました。
「もう、泣いていいんだから。」
俺が、ずうっと傍にいる。
そして斗真はギヤマンを手に取って、俊介の膝の上に置き、その顔を見上げました。俊介もギヤマンを見て、そして斗真の顔を見つめました。
「これからは、このギヤマンはなくて、俺が俊介の涙を受け止めるから。ね?」
それを聞いて、俊介は涙を零しながらも、にっこりと笑いました。まるで、花が咲いたようです。この一年というもの、苦しくてどうしようもなくて、笑うことすら忘れていた末の、笑顔です。
俊介は、斗真の手とギヤマンとに、自分の手を重ねました。
「たくさん、話を聞いてくれる? このギヤマンに起こったことも、僕のことも。」
その言葉に、斗真もにっこりと笑いました。そうして夜は更けて、ふたりの話は長く長く続いてゆきました。
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